いろいろ
はじめに
いろいろ夏の思い出
夏になると必ず、父がたくさんの鮎を釣って来ました。母は炭を熾してささっと副菜作り。大抵は冷たい素麺に茹でたてのトウモロコシ。鮎の塩焼きは黒釉の大皿に、胡瓜の漬け物は焼締めの鉢にとそれぞれ盛り付ける器も決まっていました。父が鮎を串に刺し焼き始めるのを手伝いながら、じっくりと焼きあがるのを待っていたあの時間。幼少期の夏の記憶は鮎の香り。家族の笑顔と共に思い出します。
生まれた頃から、日常使う器は父の作った焼き物でした。食器棚はほとんどが越中瀬戸焼で、それ以外は私も面識のある作り手の漆器や陶磁器でした。小学生になって初めて、友だちの家へ行くと華やかな模様の磁器皿やキャラクターの印刷されたコップがあることに気が付きましたが、今思えば、器は薄造りで手取りの軽いシンプルな形のもの、そして無地のものが好きという自分なりの好みは、幼い頃の体験が下地となり早い段階で出来上がっていたように思います。
越中瀬戸焼のこと
富山県東部の立山町新瀬戸地内で継承されている越中瀬戸焼。その歴史は今から430年前ごろに遡ります。越中瀬戸焼に関する古文書で現存する一番古いものは、安土桃山時代の文禄慶長年間の頃に前田利長公から尾張の瀬戸焼陶工、彦右ヱ門に出された文書です。その内容は、「越中の国中において良い場所が見立てられ次第、その場所で瀬戸焼をするように」(文禄2年・1593年)とあります。それに先がけ天正年間には、越中国の新川郡を治めていた前田五郎兵衛安勝から上すえ村百姓宛に「他国からの転住者である小二郎に「御用窯を築き白土を独占的に採取させる特権を与えたから他のものには採らせないこと」。「小二郎が薪を入手することについて特別の便宜を図ること。優れた技術の小二郎の焼き物を狙う商人などをみだりに近づけないこと。窯の焚き木は小次郎にも取らせるが、半分以上は在所からも買うこと。在所の百姓はよく面倒を見てやってほしいこと」など。尾張の瀬戸焼陶工に特別待遇を与え、立山の陶土を用いて加賀藩への献上品を作らせていたことが分かります。立山町上末地内に残された古窯跡を巡ると、薪の調達しやすい山の斜面や良質な粘土の掘りやすいところに窯が点在していたことが分かります。
江戸時代も後期に向かうと磁器製品の生産流通が盛んになり、陶器の需要は減少し始めます。明治時代に入ると当地では陶器瓦の生産が中心となり、大正時代には焼き物作りが廃れてしまいます。そこで昭和の初めに瓦工場を営んでいた曽祖父の釋永庄次郎や地元の有志が焼き物作りを復興させます。当時の瓦製造は登り窯で焼成され、辺りには20を超す瓦工場がありましたが、昭和40年代の終わり頃には他県産の安価な瓦の流通とオイルショックが影響し、瓦工場は立ち行かなくなりました。現在は、私や父を含む5人がこの地で作陶を続けています。
陶芸を生業に
曽祖父の築いた登り窯は修復しながら70余年稼動し、2004年には父が設計し家族で新たに登り窯を築窯しました。幼少期から当たり前に薪運び等の手伝いをして過ごして来ましたが、年に数回の火入れの日、特に楽しみにしていたのが、焚き終えて光る窯の中から父が色見を引っ張り出すことでした。眩しい黄色とオレンジが混ざった高温の一見柔らかそうな塊が、水で冷却した途端に様変わり。その様子は何度見ても面白く、土の焼け具合や釉薬の溶け具合を見ては、これから2日間かけて徐冷する窯の新作への期待で胸が高鳴りました。
いつしか手仕事に携わりたいと憧れを抱いて育ち、陶芸を生業としてからは、土作りに釉薬作り、轆轤と様々な作業工程に没頭して来ました。しかしいくら回数をこなしても窯焚き後は落ち着きません。焚き終えた高温の窯の中を覗き見しては祈るような心持。窯出しの日には、取り出すなり高台の手入れをして、料理を盛り付け、野花を投げ入れてみるのです。轆轤を回している時からイメージしていた雰囲気、手取りの良さや寸法を生まれたての器から真っ先に感じてみることは、作り手ならではの醍醐味です。そして実際に使ってみることで、良さにも悪さにも素直に気づくことが出来るように思っています。
子ども達に伝えたいこと
結婚して子供が出来たのを機に、山あいの小さな集落にある古民家に移り住みました。築80年強の太い梁が頼もしい家は、初めて来る人には驚かれますが、一階の和室のほとんどを作業場とするため土間に改装しています。冬の間は、和紙を生業とする夫の紙漉き場としてフル稼動。友人達が集まれば天井の高い空間で広々と宴します。使う頻度の順に直し始め、現在は古い台所の修繕準備中。床を無垢の杉材に張り替えて、古いシンクを新調し漆喰壁を塗り直す予定です。暮らし始めて5年が経ちますが、修繕を重ねる毎に愛着のある家に育ってきました。
食器棚には私の作った器が所狭しと並んでいます。2歳と6歳の子供が赤ちゃんの頃から重宝しているのは、高台が広くて平たく浅い鉢。大人と分け隔てなく自由に器を使わせていると呆気なく欠けて涙が出ることもありますが、その経験の積み重ねから、知らぬ間に器を丁寧に扱う所作に繋がればと思っています。私が料理していると、息子が一緒に作りたいと張り切って隣に並ぶ日もあります。その日の献立に合う器を選ばせて盛り付けさせると、稀に何も言わなくても上手に出来ることも増えてきました。一緒に食べる人や人数、食材や料理によって求められる器が変わることを、私とのやり取りの中で繊細に吸収し成長して欲しいと思っています。
うつわ一つで食事が美味しくも不味くも変化します。気に入った花入を選び、花一輪生けるだけで空間が変わり、こころが休まります。特別なことは何もない当たりまえの日常で使ううつわだからこそ、生きることを豊かにしてくれる名脇役なのだと思います。私はこれからも一心に土と向き合い、こころが明るくなるようなうつわを丁寧に作っていきたいと思っています。